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槍ヶ岳から北穂高岳へ−我が縦走奮闘記−

 広島県に転勤になってから初めて、ちょうど4年前に北岳に登って以来の山行である。 なぜ今山なのか。 確たる理由はないが、ふとその気になったのは我が女房がいろいろな行事に参加したり、その関係で我が家に客人が泊まりに来ることになったりで、自分に自由が舞い込んできた様に感じたことがきっかけである。 日頃から我が百名山登頂済み記録に槍ヶ岳の名が無いのが気になっていたこともあり、五体満足なうちに名だたる槍から穂高への大キレット越えを行おうと決意したのである。
 以下は、私の奮闘記である。 世にベテランのさらっとした解説はあれど、生々しい素人の体験記は少ないので、参考になるかと思いキーボードをたたくこととした。

出発 1999年8月3日 

 いろいろと調べた結果、広島から仕事を終えて最も早く上高地に入る手段が京都(大阪発)から夜行バスに乗ることであると2日前に知り、バス会社に電話をかけてみるとあっさり予約が取れた。 当日のバスは、意外とすいていて、いわゆる中高年の単独登山者を中心に座席の半分ぐらいがうまっている程度であった。 おかげで、時々目が覚める程度でぐっすり眠ることができた。

第一日目 8月4日 上高地−殺生ヒュッテ 

 朝6時30分頃上高地に到着。 バスターミナルのレストランで朝食をとる。 しかし、その時左腕にあるはずの時計がないのに気がついた。朝バスの中で確かに時間を見た覚えがある。 この山行に先立ち手に入れた高度計付きのデジタル時計である。 かねてから欲しかったものをやっと決断して買ったというのに。 バスが着いた場所や歩いてきた道をたどってみたり、あちこち聞き歩いたり無駄な努力をしてみたが、あるはずはなかった。 いい年して「おかあちゃーん」といって泣くこともできなかったが、そんな気持ちであった。 

 気を取り直して入山手続きを行った後、上高地を後に徳沢に向かって歩き始めた。 そのとき、後ろからたくましい30歳代とおぼしき男性が声をかけてきた。 一緒に京都からバスに乗ってきた単独登行者である。 同じ槍を目指すということで、自然に話しながら並んで歩くことになった。 快調にとばして徳沢園、横尾で小休止を取り、槍沢ロッジに着いた時は余裕しゃくしゃくで、コースタイムを大幅に縮めての到着であった。 しかし、この時、私にとっては少々オーバーペース気味なここまでの歩きが、後でたたってくることになるとは知る由もなかった。

 槍沢ロッジでゆっくり昼食を取り、12時過ぎに出発していよいよ槍へ向かう。 あわよくば、槍の肩まで届くかもしれない。 先ほどの男性と歩き始めて間もなく、槍沢ロッジの手前で追い抜いたベテラン女性の二人組を再び追い抜く。 このうちのひとかたは、百名山の半分以上をこなしているという。 やや傾斜がきつくなってくると、やけにしょっているザックが重く感じるようになってきた。 あれもこれもと欲張り、帰りの新幹線の中でのファッションまで考えて55Lのザックをパンパンにしてきたことが悔やまれ始めた。 「どうぞ先に行ってください、私はマイペースで行きますから」 と一緒の男性に声をかけると、ちょっと迷った表情を見せた彼は、「それでは」 と言ってあっという間に視界から消えていった。 ババ平、大曲りとやや苦しみながらも何とか進む。 しかし、天狗原の分岐の手前ぐらいから目に見えてペースが落ちてくる。 小灌木の中を延々と続くジグザグの登りがつらい。 とうとう下山者に禁句を吐く 「まだ大分ありますか?」、「そうですね、大分ありますね」 の声に思わずしゃがみ込みたくなる。 無理もない4年間山らしい山に登ったこともなく、日頃はどこへでも自動車で行く。 たまに犬を散歩させるぐらいしか歩くことはない。 今度も300mぐらいの裏山に2回ほどトレーニングしただけでここに来たのである。 などと今更悔やんでも仕方がない。

 足もパンパンに張ってきたが、それよりも何よりも息切れがおさまらない。 ジグザグ道の角々で息を整えるがまだハアハア言っているうちに次の登りに入らなければならない。 つらい。 酸素が欲しい。 いくつかのパーティーに追い抜かれるが、彼らとて余裕はなさそうである。 そのうち、テント入りの重いザックを背負い、おまけに靴擦れに苦しむ20代前半の若者二人組と抜きつ抜かれつの進行となった。 やっと灌木が切れガレ場道に差し掛かると、見えた。 槍ヶ岳である。 その肩に見える山荘はもうとっくに対象外である。 大分手前に殺生ヒュッテが見える。 とにかくあそこまで。 目標が見えて多少は気が楽になるが、息切れのつらさは同じである。 チョモランマへの登山者を思わせるような足取りではなかなか小屋が近づかない。 そこでふと思い出し、試しに持ってきた酸素入りのプラスチックボトルを使ってみることにした。 ガイドを口につけプッシュボタンを押しながら夢中でガスを吸い込む。 ミントの香りが苦しみを和らげてくれる。 酸素が効いたのか、精神的なものかは不明であるが、多少ピッチがあがる。 酸素は瞬く間に無くなったが、最後の頑張りでなんとかヒュッテにたどり着いた。 受付の若い女性の笑顔が嬉しい。

 途中から先行してもらった男性は1時間以上前に到着したという。 また、私よりも遅れたベテラン女性二人組は、私よりさらに1時間ちょっと遅い午後6時頃息も絶え絶えに到着した。 その日の殺生ヒュッテは客が少なくゆったりとくつろげた。 夕食時には、同じテーブルの決して若くはない女性5人組と楽しく歓談し、早々と床につきぐっすり眠る。

第二日目 8月5日 殺生ヒュッテ−槍ヶ岳−南岳小屋 

 朝6時過ぎ、朝食を終えてヒュッテを出る。 霧で槍の頭は見えない。 このヒュッテからは、東鎌尾根に出て稜線沿いに登る道もあるが、昨日苦しめられた槍沢をあくまで詰めることにした。 さすがに一晩寝たせいか昨日とはうって変わって快調に沢を登る。 最後の急登ではさすがに息が切れたが、ほぼノンストップで真っ白に煙る槍岳山荘に到着する。 昨日のテント組若者2人が笑顔で迎えてくれる。 これから穂先を目指すと言うことなので、ザックをおいて一緒に登ることにした。 霧か、雲か、とにかく真っ白の中を岩場にとりつく。 風もかなり強い。 ここへは今まで岩場の経験など全くない人も大勢登るので、特に女性の中に立ち往生する人もでてくる。 私にとってもちょっと怖い思いをする箇所が一、二あったが、比較的すいていたので快調に頂上を極める。 穂先ではへたり込んで立てない女性を含めて6,7人であった。 残念ながら周りが全く見えない。 祠をバックに写真を取り合って早々に山荘に戻る。

 山荘の中は、穂先に登ろうかどうしようか、次の目的地に進もうかどうしようかという人たちでごった返していた。 霧雨模様になったり、たまに穂先が一瞬見えたり、不安定な天候が続く。 私としても、もし晴れたらもう一度穂先に登って周りを展望してみたいという気持ちと、この天候で穂高岳に向かうことへの不安が入り交じり、長い時間ここで様子見することになった。 いくつかのパーティーが穂高行きをあきらめ双六岳へ向かって出発する。 双六もいいなとふと思う。 笠岳を経由して新穂高へ降りればいい。 決心のつかないまま、カッパを着てザックを背負い込む。 南岳までとにかく行ってみよう。 私の足は自然に穂高方面へと向かうことになった。

 南岳への道は平和そのものであった。 しばらく進むと、信州側は曇っていて何も見えないが、飛騨側は晴れ上がり、笠岳がくっきり見えてきた。 大喰岳、中岳、南岳と3000メートルを越える山を中心にいくつかのこぶを越える登ったり降りたりの縦走路であるが、岩場がほとんどなくゆったりとした気分で歩けるところがいい。 中岳の頂上から携帯で会社に電話をかける。 「もしもし、みんな忙しくしているのに悪いな。今3080メートルの山頂にいるから、何かあってもすぐには戻れないぞ」 大原課長が元気よく答えてくれる 「こちらには何も問題はありません。だけど遭難しないでくださいよ。駆けつけられませんから」 家にも電話する 「さっき槍に登ってきた。これから穂高に向かう」 何も心配していないかみさんが明るく答える 「そう、元気でね」

 南岳小屋に着いたのは、確か12時過ぎである。 小屋は強風と霧雨に包まれていた。 ここへの道で私を軽快に追い抜いた若い女性を含む何人かの若者が昼食を取っている。 私も牛丼を注文して、百名山を全部登り切り今300名山をこなしているという先着の先輩と歓談する。 みんな今日のキレット越えをあきらめここに留まることになる。 天候のせいか小屋はきわめてすいている。
 まもなく天気が回復し、穂高が見えるというのでカメラを抱えて飛び出す。 小屋のそばの丘から北穂を眺めたときその威容に圧倒されるものがあった。 ごつごつした岩でできたすごい山である。 それよりも何よりもどこから登るというのだ。 ほとんど絶壁に見えて、道が付いているとは思えない。 おそるおそるキレットをのぞき込む。 遙か下に岩でごつごつした竜の背を思わせるやせ尾根が見える。 ああ、とんでも無いところへ来てしまったと思っているところへ、穂高側からキレットを越えてきた男女二人がこちらへ向かってくる。 「どうでしたキレットは」 という問いかけに女性が青白い顔で 「怖かった」 と一言。 その顔にはまだ越えきったことへの喜びが表れておらずとにかくほっとしたという風であった。 「どの辺が怖かったですか」 と続けると、「もう、全部」。

 その夜は、明日向かう道がいかに怖いかという恐れと、実際取り付いてみればそれ程でもないさという思いが交互に押し寄せてきてとにかく不安であったが、意外にも疲れが優先したのか早々と眠りに落ちる。

第三日目 8月6日 南岳小屋−大キレット−北穂高岳小屋

 朝6時頃、小屋の中は北穂に向かおうか、あるいは、見合わせようかという人たちでごった返していた。 外は昨日と同様、霧雨、強風である。 昨日5時に出発しようと話し合っていたパーティーも迷って待機している。 私としても急ぐ日程でもなし、ゆっくり天候の回復を待つことにする。

 とうとう行動を起こすパーティーが現れた。 300名山士と若い女性二人で、それぞれ単独行同志の臨時パーティーである。 カッパを着込み、「ゆっくりいこうね」といい聞かせながら霧雨の中をキレット越えに向かう。 しかし、誰も後に続かない。 どこからか 「今日の夕刊か、明日の朝刊だな」 と言うつぶやきが聞こえる。 次に行動を起こしたのは、ベテランらしい5,6人組で、こちらはキレット越えをあきらめて天狗原へ下山するという。 これはこれで勇気ある行動であると思った。 間もなく少し明るさが感じられるようになった。 少なくとも雨はやんでいる。 一人の若者が意を決すると続いて二人組のパーティーが立ち上がる。 いずれも私の息子と同じ年代の若者である。 よし!、私もこれに続き、臨時の4人パーティーが出来上がり、いよいよ出発である。

 南岳から大キレットへは230メートルを一気に下る。 かなりきつい傾斜であり、踏み外せば大変なことになるので慎重に下る。 途中二つの梯子があり、最初のは垂直でかなり長いので、梯子の苦手な人には要注意である。 特に問題もなく大キレットの取っつきまで下り、いよいよ尾根を渡り始める。 やせた岩稜を幾つか越え始めてこれは相当きつそうだぞ、ちょっと甘く思っていたかもしれないと身を引き締める。ピークの一番上に出たときが怖い。 とてもその上に立つ勇気がなく、四つん這いになって越えることにする。 しばらく進むと、目の前に巨大なピークが現れる。 このピークはどちらかへ巻いてくれという願いもむなしく、どんどんピークのテッペンに向かうしか手がないことを悟る。 長谷川ピークである。 ピークの上では怖いとか怖くないとかいっさい考えないようにし、そそくさと次に向かう。 もう必死である。 やがてナイフリッジ状の尾根の信州側を這うように進んでいて、飛騨側に移るところがあり、小さな平らな岩の上で四つん這いで方向転換しなければならない。 ここは私にとっての三大恐怖箇所の一つであった。 猛スピードで私たちに追いついてきたベテラン三人組の一人が 「飛騨泣きの前の信州泣きだな」 とつぶやく。 その直後、飛騨側に垂直に降りて右に巻く箇所がある。 取り付いてみると左足をホールドして、下の方にわずかに見えるホールド箇所に右足を伸ばすが足が届かない。 下は絶壁である。 ままよ、両手で懸垂状態になり身体を滑らせてやっと右足をホールドする。 二番目の恐怖箇所であった。 ほっとする間もなく、またもや飛騨側にかなりの傾斜で6−7メートル真っ直ぐ下るところにでる。 ここは怖いと言うよりも困った。 手でつかむところ、足を乗せるところが少なくかつ小さい。 どこをどうやって降りたらいいのだ。 何でここに鎖か梯子がないのだ。 上からベテラン氏が 「ゆっくり、ゆっくり」 と声をかけてくれる。 何とかここをクリヤーすると間もなくA沢のコルにでる。 やれやれ、これでキレット部は越えた。 でもまだ飛騨泣きが待っている。

 北穂への直登に取りかかったところで、上から下りてきて立ちすくんでいる中年女性3人組に出会う。 「ここまで怖かったですか」 と聞かれ 「怖いことは怖かったけど・・」 なんと答えてよいかわからない。 気が付いてみるとぱらぱら雨交じりの天候となっていた。 彼女らと一緒に南岳方向を眺めると、迷うのは無理もない、雨雲で何も見えない。 この先どんな怖いところが待っているのだろうかと不安になるのは当然である。 「この天候では危ないかもね」 と言う私の一言を待っていたかのように 「帰えろ」 と言うとあっさり方向転換して3人はもと来た道を戻り始めた。 やがてこの女性3人組に先導されるように飛騨泣きに突入する。
 最初の難所は、岩から岩へのトラバースであった。 岩と岩の間は切れ込んでいて、踏み外すと大変なことになる。 向こう側の岩は表面がつるつるでホールドする部分が全くないが、所々鉄杭が埋め込まれていてこれを頼りに登る。 鉄杭がなかった時代はどうやってここをクリヤーしたのだろうか。 先ほどのご婦人方は一度経験済みなので、彼女らが 「次は左足をその杭にかけて」 等と教えてくれる。 次々とここをクリヤーする人たちを見ながら自分の番を待っているときの不安な気持ちは何ともいえない。 この待っている間が私の3番目の恐怖ポイントであった。 しかし、私がここをこなしているとき皆は既に次のポイントへ向かっていて誰も面倒は見てくれていなかったが、いざ取り付いてみると鉄杭のおかげでさほど難しいことはなかった。 最後の難所は10メートル以上あるかと思えるナイフリッジ状の尾根の通過である。 我がパーティーの先頭を切っていた若者は、右足を飛騨側に、左足を信州側におろして馬乗り型でここを通過したという。 さぞかし怖かったことであろう。 そんなことをしなくとも、3本に分けられた太い鎖が信州側に真横に張られており、これを掴みながら少し下にある足場を通過すればよく、鎖を離さない限り落ちることはない。 両神山(西岳)の鎖場で鍛えた私にとってはそれほどでもなかったが、ここを最も怖かったとする人もいる。 ここを通過すると皆が笑顔で迎えてくれた。 女性3人組は、「ここからはもう怖い所はないわよ。それではお先に。」 と言ってあっという間に登りにかかる。 ああ、やっと切り抜けたのだと思うとほっとするとともに、普段では味わえない体験に感動を覚える。

 ほっとする間もなく、山頂への登りが待っている。 じぐざぐの岩だらけの道を直登することになるこのコースには、所々鎖場や梯子があったり、ちょっとホールドの難しいところはあるが、確かにそれほど怖い所はない。 ただ、300メートルに近い急登は再び私を苦しめる。 しかしここは精神力で休憩なしに登り切ると、北穂高岳小屋への取っつきのところで先着した若者たちが笑顔で迎えてくれた。 4時間強にわたる奮闘であった。

 「ここは日本一高い山小屋だし、ここから槍が見たいので、明日の天候に賭けてここに泊まります。」 と言う馬乗り青年の言葉は、予定通り悪天候の中を穂高岳山荘まで行こうかどうしようか迷っていた私には神の声のように聞こえた。 それでもまだ迷っていた2人組を含めて今日はここでの泊まりとなる。 山小屋には実に様々な人たちが集まってくる。 定年をすぎて毎週のように山歩きをしている先輩の豊富な体験談は、長い夕食までの時間を充実させてくれる。 夕食後、一日で上高地からこの北穂小屋まで登ってくることができると豪語する30代とおぼしき人や、写真機片手によい写真を撮るためには1時間でも同じ場所で待ち続けると言う高年者とビール片手に消灯時間近くまで山談義を楽しんだ。 悪天候のおかげで今日も客が少なく、余裕を持って床につく。 明日は山を下りよう、もう充分堪能した。

第四日目 8月7日 北穂高岳−涸沢−上高地−平湯温泉 

 「おい、寝ている場合じゃないぞ、槍が見えるぞ」 の声に登山客が一斉に起き出す。 馬乗り青年の願いが通じたのだ。 朝食後、太陽の上がるのを待ち、多少雲のかかっている場所もあるが360度の展望を楽しんだ私は、昨日までに親しくなった人たちに別れを告げて頂上を後にした。 南稜の急な下り、涸沢からのだらだら下り、横尾から上高地への長い長い道のりは足を痛めた私にはつらい行程であった。 この間の苦労話は省略するが、平湯温泉でバスを降りるときステップでなかなか降りられなくて、降りた後もピノキオのような足取りで旅館紹介所にたどり着いたのであった。 山を下りての温泉は格別であったが、全身の痛みは三度の入浴をもってしても全く好転することはなかった。

我が家へ 平湯温泉発

 翌日思い出が一杯詰まったザックをしょって、雲一つない平湯温泉を後にして家路についた。

 

おまけ ー命を支えた左膝ー

 北穂高岳の頂上から単独で下山を始めた私は、まだ多少緊張していた。 昨夜誰かがこの南稜の下山道には、斜めになっている岩が覆い被さっており、ザックが引っ掛かって通り抜けにくい場所があると言っていたのが妙に頭にこびりついていた。 足が張って自由に歩を進めることができないので、ぎくしゃくしながら下山をはじめて間もなく、左下にそれらしき斜めに傾いた大きな岩が出現した。 あれがそうに違いない。 岩を見つめながらどんどん近づいてみると、確かに斜めに覆い被さっている。 これに違いないと思った私は、慎重にくぐり抜けることにした。 しかし、取りかかってみるとさほど上の岩がじゃまになると言う程でもないが、非常に足場が取りにくい。 きちんとホールドできる箇所がないのである。 昨日のキレットを経験していなければ、ここでおかしいなと気がついたに違いない。 しかしそのときの私はこの道にも結構難しいところがあるんだなと言う感じで、一寸無理をしながらも5−6メートル崖を下った。 そこで、はてなと気が付いた。 そこからは、左にトラーバースしなければ下に行けないが、そこから下はどう見ても断崖絶壁である。 この道はこんなに難しい所を行かなければならないのだろうかというかすかな思いは依然として残っていたが、どうもおかしいなという気持ちの方が強くなり、とにかく戻ることにした。

  このときの私は我ながら冷静であった。 当たり前であるが、絶対に落ちてはならない。 しっかりとホールドを確保しながらゆっくり戻り始めた。 しかし、先ほど無理して降りた箇所には体を持ち上げる程の足場がないのである。 あるにはある。 降りるときには気が付かなかったが、厚さ2cm位の3角形の板状の石が10cm位垂直に飛び出ていて、いい具合に上部が平らになっている。 ここに足をかければよいのだが、手で触ってみると左右にぐらぐらする。 垂直方向にはしっかりしているようである。 しかしこの辺の岩はもろくて、一寸手を掛けるとぼろぼろ崩れてしまうものが多い。 しかも手を掛けるスポットもはっきりと無く、全身の重みを掛けなければならので、とてもここに足を乗せる勇気はなかった。 そこで、あちこちに手掛かりを探るが他に手だてはなかった。 西洋人だったら十字を切ったであろう。 左右に力が掛からないように、ゆっくり右足をその石に掛け身体を引き上げ、そして素早く左膝を岩の窪みにもぐり込ませた。 やった、成功である。 浮き石に近い石が私を支えてくれたのである。 今度は左膝のみで全身を支えている状態になった。 岩に押しつけられた左膝が痛む。 さて次はどうしよう。 ぼーっとして降りてきた時とは打って変わって神経が研ぎすまされているのがわかる。 と、その時、上の登山道で誰かの声が聞こえた。 見えた。 10メートル程先に、昨日私たちより後でキレットを越えてきた高年の夫婦が降りてくる。

 「すみませ−ん」 必死で声を掛けると、二人がこちらを振り向いた。 「下りるのはこの道でいいんでしょうかね」 間抜けな質問に二人はびっくりしたようにのぞき込み、そして、「矢印はこちらに向いてますよ」 とやはり私にとってはとんでもない方向を指さしている。 さらに私が声を掛けようとすると、事態は私にとって不幸な方向に急転した。
 「お父さん、雷鳥よ」、 「なに、雷鳥」 二人の姿が岩陰に消えた。 どうも私の窮状が分かっていないらしい。 確かに、私のおかれた状態が分かっても二人にはどうしようもないことだし、ここは独力で登り切ることしか私にとって道はないのである。 思い直してまた手掛かりを探る。 左膝がみしみしと痛む。 表面のぼろぼろした石をむしっては落石しないように岩の窪みに投げ込み、開いた穴の奥に手を突っ込んで身体を引き上げたことは覚えているが、後はどうしたものやら、とにかく這うがごとくに一般道に掛け登った。

 先ほどの夫婦と、後で降りてきたらしい夫婦が雷鳥の写真を撮っている。 振り向く夫婦に、「道を間違えましてね、落ちるかと思いましたよ」 と告げると、「大変でしたね」 と真顔で応じてくれる。 いい人たちなのだ。 そして慰めるように、「雷鳥ですよ」と指を指して教えてくれた。 6羽ほどの雷鳥がすぐ先の岩に群れている。 確かにこれほど多くが一緒にみられるのは珍しいが、そのときの私には感動も感激もなかった。 ザックごと大きな岩に仰向けに倒れて空を見上げる。 助かった。

 この後、「なに、一寸道を間違えただけで、大したことではなかったのだ。 このことは誰にも内緒にしておこう。」 と何度も思いながら、長い下りを降り続けた。 斜めになっていて邪魔になる岩などにはついぞ出会うことはなかった。

 こんな体験はやはり人に話したくなるもので、ここに記載することとなった。 しかし、この話は、やっぱり、うちのかみさんにだけは内緒にしておこう。

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